No.7-昔の世界に帰っている-家族の顔も忘れる
当会副代表理事の杉山孝博Drによる連載です。全52回、毎週日曜日と水曜日に新しい記事を追加します。
公益社団法人認知症の人と家族の会副代表理事・神奈川県支部代表
公益社団法人日本認知症グループホーム協会顧問
川崎幸クリニック院長
杉山 孝博
認知症のおばあちゃんが、朝早く台所で、ガスコンロの上に電気炊飯器を置いてガスに火をつけようとしている。それを見た家族が、「なにをしてるの!」と悲鳴に近い声をあげると、「今日は息子が遠足に行くんで、お弁当を作ってやろうと思ってな」という答が返ってくる。
「ガスコンロに電気炊飯器」「息子の遠足」―。常識的に理解できないことが認知症介護の現場では日常的に起こっている。
認知症の記憶障害の第三の特徴が「記憶の逆行性喪失」。これは、「記憶を過去にさかのぼって失っていき、最後に残った記憶の世界が本人にとって現在の世界となる」という特徴だ。
このおばあちゃんの世界を、息子が小学生のころまで遡らせたらどうだろう。ガスコンロでご飯を炊いていただろうし、遠足にいく息子のために張り切って弁当を作ることは当然だ。そう考えると、それ自体は異常な言動ではなくなる。
そんなことが起こっていると理解できない家族が、「火事になったらどうするの」「息子は先月会社を定年退職した大人よ」と教え込んでも、効果がないばかりか、混乱を深めるだけだ。
その世界を認めて「○○ちゃん、遠足を楽しみにしているでしょうね。私も手伝いますから、お母さんはおかずを作ってください」のように、話を合わせながら、ガスこんろから引き離すのがよい対応である。
配偶者の顔が分らなくなり、嫁を妻と思い込んでトラブルを引き起こすことがある。医学的には「人物に対する見当識障害」と呼ぶが、そのようなとらえ方では本人の世界が消えてしまう。
昔に戻って、「自分の妻は30歳代の若い女性」と思い込んでいる本人にしてみれば、目の前の老婆は自分の妻ではありえないし、イメージに一致する嫁が自分の妻であると考えるのは当然であろう。
「何十年も連れ添った私を忘れるなんて!」「お義父さんは嫌なひと!」と家族は嘆き、気持ち悪がるが、それよりも「奥さんは何をしていらっしゃるの」「ご飯の支度をしなければならないので、また後でね」と言ったほうがうまくいく。
本人のしっかりしていたかつての状態を知っていて、認知症になったことを認めたくない家族には、本人の状態に合わせて演技をすることが難しいかもしれない。
本人が変なことを言っていると感じたとき、「記憶の逆行性喪失」の特徴を思い起こすことで、混乱が早く治まるのは間違いない。
杉山孝博:
川崎幸(さいわい)クリニック院長。1947年愛知県生まれ。東京大学医学部付属病院で内科研修後、患者・家族とともにつくる地域医療に取り組もうと考えて、1975年川崎幸病院に内科医として勤務。以来、内科の診療と在宅医療に取り組んできた。1987年より川崎幸病院副院長に就任。1998年9月川崎幸病院の外来部門を独立させて川崎幸クリニックが設立され院長に就任し、現在に至る。現在、訪問対象の患者は、約140名。
1981年から、公益社団法人認知症の人と家族の会(旧呆け老人をかかえる家族の会)の活動に参加。全国本部の副代表理事、神奈川県支部代表。公益社団法人日本認知症グループホーム協会顧問。公益財団法人さわやか福祉財団(堀田力理事長)評議員。
著書は、「認知症・アルツハイマー病 早期発見と介護のポイント」(PHP研究所)、「介護職・家族のためのターミナルケア入門」(雲母書房)、「杉山孝博Drの『認知症の理解と援助』」(クリエイツかもがわ)、「家族が認知症になったら読む本」(二見書房)、杉山孝博編「認知症・アルツハーマー病 介護・ケアに役立つ実例集」(主婦の友社)、「21世紀の在宅ケア」(光芒社)、「痴呆性老人の地域ケア」(医学書院、編著)など多数。